葛城古道 11Km 約4時間のコース
かつて古代の人々が行き来したであろう道。そんな歴史が残る古道を散策してみてはいかがでしょう。
 
風の森→ 高鴨神社→ 高天彦神社→ 名柄→ 一言主神社→ 九品(くほん)寺→ 六地蔵→ 御所駅

風の森へは近鉄御所駅からバスで15分の距離。

高鴨(たかかも)神社 
高鴨神社は豪族鴨氏の氏神が祭られています。京都上賀茂神社、下鴨神社などの鴨神社の総本社でもあります。

神社横に葛城の道歴史文化館があります。

葛城古道の標識。コスモスが咲いている。

高天彦(たかまひこ)神社
同社には葛城氏の祖神が祀られています。5世紀の大王家の外戚として栄えた大和葛城地方の豪族。奈良県御所市掖上(わきがみ)の地から北葛城郡新庄町あたりまでを本拠地としました。記紀に襲津彦(そつひこ)葦田宿禰(あしたのすくね)の名が認められます。
襲津彦の女
常磐之媛(むすめいわのひめ)は仁徳天皇の皇后で履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)三天皇の母として知られています

かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し枕きて死なましものを 
                  
常磐之媛(万葉集巻二、八十六番)

仁徳天皇記紀では第16代とする。大雀命(おおささぎのみこと)といい応神天皇の皇子。仁徳天皇という諡(おくりな)は8世紀後半につけられた。宮居は難波の高津の宮にあったとし、河内平野の開発に努めた。「宋書」夷蛮伝倭国の条にみえる倭国五王のなかにみられる。

履中天皇記紀では第17代とする。「宋書」にみえる倭王讃(さん)を履中天皇とみなす。墓は百舌鳥耳原陵、全長365メートルの前方後円墳。

反正天皇記紀では第18代とする。「宋書」にみえる倭王珍(ちん)を反正天皇とみなす。「日本書紀」には河内丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや)で在位5年。墓は百舌鳥耳原陵、

允恭天皇記紀では第19代とする。「宋書」にみえる倭王済(せい)を允恭天皇とみなす。大和(やまと)の遠(とおつ)飛鳥(あすか)宮 奈良県高市郡明日香村付近に都する。のち藤原宮を建て藤原部を定める。在位42年河内長野原陵に葬られる。


写真中央に神社。左はコスモス、右では菊を栽培している。

古い杉並木の向こうに鳥居が見える。

コスモスを漢字で書くと秋桜。

今まで使ったお金が必ず私にかえるという幸せを呼ぶ蛙

神社横の道は金剛山に向かいます。誰が名付けたのでしょう。郵便道(ゆうびんどう)と呼ばれています。 昔このコースを郵便配達人が毎日通っていました。神社から直登で2時間、金剛山の山頂社務所に着きます。 金剛山の山頂には役ノ行者創建の転法輪寺と一言主神社、後醍醐天皇、楠木正成が奉祀されている葛城神社があります。金剛山は植林の山。高い所には檜が多く、沢筋の水分の多い所には杉が育ちます。


 


名 柄(ながら)
名柄は旧高野街道と水越街道が交差する要所。
写真は葛城酒造 0745-66-1141

純米醸造 百楽門1升¥3000

大和三山
九品寺あたり。大和三山が見えます。
北の耳成山を頂点に三山が鼎立します。
写真左つまり北から 
耳成山(みみなしやま)
140M 
畝傍山(うねびやま)
199M 
天香具山(あめのかぐやま)
152M

耳成山と畝傍山は瀬戸内火山系に属する火山郡。天香具山は火山性はない。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が弟の大海人(おおあま)皇子と額田王(ぬかたのおおきみ)を争ったことを踏まえて詠んだ香具山は畝傍ををしと耳梨と相争ひき神代よりかくにあるらし古(いにし)へも然(しか)にあれこそうつせみも妻を争ふらしき(万葉集巻1)で知られています。


竹内(たけのうち)街道

遣随使の往来が深まり、奈良飛鳥に通じる大道が開かれました。(613年)竹内街道です。難波→仁徳陵(北側)→古市(羽曳野市)南河内郡太子町→竹内峠→大和高田→飛鳥


葛城氏のこと

葛城氏は5世紀の大王家の外戚として栄えた大和葛城地方の豪族。奈良県御所市掖上(わきがみ)の地から北葛城郡新庄町あたりまでを本拠地としました。記紀に襲津彦(そつひこ)の名が認められます。襲津彦の女常磐之媛(むすめいわのひめ)は仁徳天皇の皇后で履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)三天皇の母として知られています。堺市の地図をみました。ありました。北から反正陵(堺市北三国ヶ丘)、仁徳陵(堺市大仙町)、履中陵(堺市緑ケ丘)の三つの前方後円墳が同じ方向を向いています。
尚、允恭陵は河内長野市にあります。
二上山で採れる石はすごい。

葛城山の隣にあるのが二上山です。実はここで採れる石が日本の歴史の上で重要な役割を果たしました。まず二上山周辺に分布する
サヌカイト。サヌカイトは割ると鋭い刃物状に割れる性質があり、古代刃物や矢じりとして使用されていました。大和、和泉だけでなく全国的に使用されました。周辺には採石場跡がいたるところにあります。次に凝灰岩です。古墳時代後期家形石棺として使用され、高松塚古墳の石棺も二上山から運ばれました。鹿谷寺跡は凝灰石地帯に造られた石窟寺院の跡で、石切場跡は古墳時代に石棺材料として搾屈された遺跡です。そして金剛砂がありあます現在も採取されていて、国道24号線沿いにある工場で生産されています。昔は玉や銅鐸の研摩用に、そして現在はサンドペーパー、グラインダーなどの研摩材として利用されています。

金剛山と吉野の桜、一見なんの関係もなさそうですが、実は、、、。

吉野の桜は有名です。桜前線の北上とともに、山麓から下、中、上の千本と山をピンクに染めあげます。さて、金剛山の山頂には役行者が創建したといわれる転法輪寺があります。金剛という名は修験道と関係がありそうです。伝承によれば、役行者は山上ケ岳に参籠して千日の荒行の末、感得したのが修験道の本尊の
金剛蔵王権現で、役行者はその姿を桜の木に刻んだといわれます。金剛蔵王権現を本尊とする金峯山寺が建てられ、平安、鎌倉時代から朝廷以下一般庶民の信仰を広く集めました。役行者が最初に金剛蔵王権現を刻んだ木が桜だというので桜は尊い御神木だという信仰が芽生え、桜を植えて蔵王権現に供えることが広まり、そして今日の桜の名所としての吉野山になったといわれます。