天下茶屋

当社そば粉の袋の下に会社名と一緒に天下茶屋がプリントされています。テンガチャヤと読みます。地方の方からはテンカチャヤとは洒落たいい名前ですねといわれます。以前、印刷の関係で天下茶屋をはずしたことがありました。早速、お得意様から「いい名前だから元のようにされたら」といわれ復活させました。そんな天下茶屋に由来があります。


天下茶屋跡は当社から歩いて南東10分程のところにあります。




うこぎ科
かくれみの

芽木小兵衛正立がこの地に茶店を開き、熊野詣、住吉詣の旅人に茶をふるまい「軍中散」という薬を扱った。太閤が利休の勧めで立ち寄ったのは三代目小兵衛のときで、井戸に「恵水」の名、当主には米三十俵を賜ったとある

是斎薬店「摂津名所図絵」

右上に天下茶屋是斎薬店が見える

豊臣秀吉の時代に是斎が売り出した薬で、暑気あたり」に効果があると評判になり、是斎売りが全国を行商したとあります。





『浪華名所独案 』
天保3年(1832年)



左を拡大すると住吉の隣に天下茶屋が見える。

シーボルトの「江戸参府紀行』にあります。6月10日 町の中にある大きな神社や寺院に行く。ちょうど5月の節句( Go gwats no seku )である。町々も住民もすっかり祭の装いで、商品や小売店では商品や製品を見えるようにうまく並べてある。われわれは、心斎橋を渡ったが、そのあたりの町は美しい遊園地になっていて、売るために植えた有名な植物園で町終わる。ここで景観はひらけ広々として平野に続いている。ちょうどコムギの収穫時で、ムギをかるものもあり、根ごと引き抜くものもある。、、、われわれは、昔あの有名な太閤が訪れたという天下茶屋(Ten-tsaja)でしばらく休む。人々は庭の中で彼が休憩したという茶屋を見せてくれた。さらに住吉大明神(Sumjosi daimiyosin)を訪れた、、、。

注)同紀行は1826年2月15日(文政9年1月9日)から7月7日(旧6月3日)までが記述されますが、天下茶屋(Ten-tsaja)に寄ったのは江戸からの帰路、大坂滞在時のこと。

閑話休題(あだしごとはさておき): 3月14日(旧2月6日)江戸に向かう途上、大坂に着いたシーボルトは長崎に速達で手紙を出しています。かなり高額な料金です。長崎へは毎月7,17,27日に定期便があり、料金は50-100グルデン(小判2枚=約24グルデン)。



 



天下茶屋跡へは阪堺電車
天神ノ森下車すぐです。


南海本線、南海高野線 天下茶屋駅

大阪府の花が桜草。同じように西成区にも区の花があります。萩の花。昭和62年度制定、かつて南北に走る紀州街道沿いに萩が咲き乱れていたといいます。萩ノ茶屋もそんな所だったのでしょう。

いしぶみ の うた くちずさみ たちいづる
きみ が たもと の しらはぎ の はな



Nankai Railway
南海電車はわが国私鉄のはじまり

関西地方における鉄道の創設は明治3年(1870年)7月大阪-神戸間鉄道開設のため関西鉄道局が設置されて以来政府の重要施策の一つとして強力におしすすめられた。民間にあっても、明治15年に「大阪堺鉄道会社」の出願があり、同17年11月に認可を得て、「阪堺鉄道株式会社」と改め、18年12月27日民間によるわが国はじめての私鉄阪堺鉄道が、難波から大和川まで開通した。開業当時は難波から大和川まで7.6キロ、難波・
天下茶屋・住吉・大和川の4駅が設けられたが、2年後の21年5月15日堺の中心吾妻橋(旧堺駅)まで延長された。難波停車場の年間乗客数は明治20年に152万人、同年の官鉄梅田ステン所は135万人だったという。開業初年から黒字で7.3%配当、、順次配当率が高くなり、30年には32.2%におよんだ。阪堺鉄道は明治31年9月30日に南海鉄道へと発展的に解散、佐野まで延長、36年和歌山まで全通した。 「郷土史事典大阪府」より