蕎麦の話題 6


 

うどんや風一夜薬の由来が
パッケージにあります。

あついうどんは消化がよくて栄養があり、体が暖まります。かぜを早く治す方法は、アツアツのうどん等を食べてからうどんや風一夜薬をのみ、一夜さっと眠ることが合理的だと考えてうどんや風一夜薬と名付けました。

うどんや風一夜薬(うどんやかぜいちやくすり)

随分前に聞いたことがあります。「戦前、この薬はうどん屋さんで売られていた。そして、この看板は客席と調理場を隔てる格子窓にかけられていた」。このご時世、薬事法という法律があり、今からは到底想像できませんが、かつて大阪のうどん屋さんにそんな歴史がありました。
 
「あったかいうどんを食べた後、この薬を飲むと風邪なんてすぐになおる」。とてもわかりやすい説明。人の集まるところに情報が散らされます。湯気のたったあったかいうどんのイメージがシナジーを増幅させます。マーケティングのツボがきっちり押さえられます。当時の風邪薬市場で70%のシェアがあったといわれます。大阪のうどん屋さんがいかに密接に都市生活者と関わっていたかの証。

 尚、同じ薬が東京では そばや風一夜薬 として売られました。大阪がうどん屋さんなら、東京ではそば屋さんなんです。そこは大阪の薬屋さん。そのことに異議を唱えようとはしません。そばや風一夜薬 それでいいのです。実にはっきりしています。

人気定番商品として今も売れ続けています。
創業明治9年、
株式会社うどんや風一夜薬


威 風 堂 々
大阪四天王寺参道にある岩崎太子堂さんで陀羅尼助と並んでうどんや風一夜薬売られていました。

金ぷら
衣にソバ粉を用いるもので、風味は独特だが衣の色が黒い。江戸中期の文政の頃(1818-1892)、両国柳橋の深川亭文吉が考案したという。ソバ粉は、コムギ粉のようにグルテンがでて粘ることがない。また卵黄を加え、衣を黄色味に仕上げるものもある。
銀ぷらは、これに対抗して卵白を加えたものである。この金ぷらは、屋台売りではなく、高級天ぷらとして、文政年間に茶屋の一品料理として出されたらしい。また、金ぷらは、椿油で揚げたものという異説もある。「細撰記」嘉永6年(1853)には中村屋、三河屋、小倉屋など25軒の金ぷら屋が記されている。-コムギ粉の食文化史より

「ゆでて湯少なきはあしく候、にへ候てからいかきにてすくい、むるゆの中へいれさらりとあらひ、さていかきに入、にへゆをかけふたをして、さめぬように、又水けのなきようにして出してよし、汁はうどん同様、其上大こんの汁くはへ吉、はながつほ、おろしあさつきの類、又からし、わさびをくはへよし」 -嘉永20年(1643)「料理物語」



-柳多留

 茶の会にかげのうすいがていしゅ也
 旦那寺くわせて置いてさてという
 子を抱けば男にものが言い安し
 あふた日を覚えて居るが女の気
 じゅず屋ではこしらえ上げて一と拝み
 知る人にばかりしいる子のきうじ
 吉日に大福帳は書ぬなり  

 手打ち棒

江戸風と呼ばれる三本を使用する技が考案されると、江戸のそばは一層発展し、大きな規範となったが、江戸時代の古書の挿絵をみても、ほとんど一本打ちである。正徳三年(1713)江戸中期の刊「誹諧」大黒柱五著に「本職の蕎麦屋では大、中、小の三本あり、適当に使い分ける。長さも四尺物、五尺物、六尺物などがある」と初見であり、ようやくに裏付けを得ることが出来た。 「増音」鈴木啓之著 そば博物館



江戸時代の職人の口伝に
切りべら二十三本をもって御定法とする
があります。一寸を23本に切り分けます。
切り幅1.3ミリ、標準の麺線、中打ちと呼ばれます。
さらに細打ちがあり、40〜45本、極細にいたっては50〜60本。
仮に60として0.5ミリになります。
本当なんだろうか、信じられない。

因みにJAS法に乾麺についての規格があります。
そうめん 0.7ミリ〜1.2ミリ
ひやむぎ 1.3ミリ〜1.7ミリ
うどん  1.8ミリ以上

どうこ庵 人柄の能イ 買ぐらい

江戸浅草は芝崎町にあった浄土宗の一心山極楽寺往院という念仏道場があり、その院内に道光庵という支院があった。寺の檀家衆のもてなしに折々そばを打っていたが、おいしいと評判になり、寺参りにかこつけて、そばを所望する人が押しかけたという。本山も世間の手前もあり、南無とばかりにこのユーモアたっぷりの建碑となったという。


不許蕎麦入境内 
蕎麦境内に入るを許さず

そば好きはレ点、一二点を自分に都合のいいようにおきかえ次のように読み下したはずだ。

許さざるもそば境内に入る

庵号の由来:江戸期よりそば屋に庵号が多いのは「そば切り寺」道光庵の名声にあやかろうと当時のそば屋の間で競って、屋号に庵号をつけるのが流行したことによる。

禅宗のお寺では薬石(やくせき)は夕食、朝食は粥座(しゅくざ)、昼食は斎座(さいざ)という。いずれも漬物と味噌汁程度の粗食。

共和制を求めた革命以前のルイ十六世統治下のフランスの国民はひどい食生活をしていた。ある研究家の調べたところ概ね次のようなものであったらしい。日常の食物は、パンとバターと水である。町民は一応、小麦粉で作ったパンを食べ、ときたまオカズに脂身を食べ、非常に稀に牛肉のきれはしを食べる。この時代80%以上が農民であるが、彼らは黒パンを常食とした。黒パンは大麦、ライ麦、ソバ、カラス麦、栗、豆などで作った。これはすぐに石のように固くなるのが特徴だった。10キロか15キロくらいの岩を1ヶ月かかって食べた。岩を少しずつ削って水にひたして食べるのである。パン焼きは一年に2回。そのときにかためてどっさり焼いておく。スープは塩味だけ。たまにバターかラードを入れた。日曜日には奮発して牛乳を入れることがあった。野菜を食べるのは稀だが、食べるとすればキャベツであった。ブルターニュではパンのほかにソバ粉の粥、ソバ粉のクレープ、ソバ粉のケーキ。中部では栗の粥、南部ではトウモロコシの粥。牛は肉を食べるよりは、牛乳が目的で、牛乳はすべてバターとチーズにかえられた。鶏を飼ってはいるものの、卵を食べるのはごく稀で、よほど特別の日であった。
開高健「最後の晩餐」より


新増補浮世絵類考」に付載された「戯作者略伝」の式亭三馬の条で、当時の作者の原稿料に触れたあと、「また冊子の発市は、吉日をえらみてするは常なり。此日、書房(版元)は蕎麦を出して、作者画工をはじめ刻摺製本の人々をもてなせり」と出版祝いにそばが振る舞われたという。十返舎一九作・画の黄表紙「的中地本問屋」享和二年(1802)刊の巻末にもつぎの通り記してある。草双紙の売り出しには、そばをかつていはふこと、いづれの版元にても、きはまりたる吉例なり。一九うりだしにむらたに(村田屋)へよばれて、そばのちそうにあづかる。いたってのこうぶつ、いくらでもくひしだい。ことしからしんだい(身代)も、このそばのとふりにのびるずいそう(瑞相)、まづはめでたくいち(市)がさか(栄)へた。はんもとめでたい、おいらもめでたい。



夏の時期涼しさの予感を伝える食べ物に冷麦があります。透明感のある硝子器に入れられた冷麦が涼味を促進します。

冷麦もまた温飩を造る法のごとくにし、きはめて細かにこれを切り、緒のごとくにす。ゆえに俗に切麦と称す。煮熟して取り出し洗ひ浄めて、冷水に浸し氷のごとくならしめて、これを食ふ。これを食ふもまた温飩の諸汁を用ゆ。特に芥子泥を加へて佳となす。大抵、温飩は寒天の時に宜し」
「本朝食鏡」(元禄8年・1695年)




夏になると思い出します、お元気ですか。