蕎麦の話題 3 


    

語呂合わせが作品の寓意を形成する。日本語の音通で最もわかりやすい例として思い浮かぶのは「藻刈舟(もかりぶね)」である。湖沼や海岸の水草を苅る舟の図だが、この「藻刈」は音が「儲かり」に通じるため、商家はとくにこの画題を喜んだ。名高いのは何といっても大阪の画家・森一鳳(明治4=1871年没)。円山応挙に学んだ森徹山の養子となり、円山派のスタイルに洒脱な感覚を盛り込んだ作品を制作した。この一鳳に大坂の商人たちが、こぞって藻刈図を注文したと伝えられる。藻刈(儲かる)一鳳(一方)という景気のよさがその理由だ。
  ー身辺図像学入門 岡泰正著

八軒家界隈 淀川図巻 森一鳳


天満、八軒家は三十石舟の船着き場


 

遮断機おりて立ちどまる街待たずに春の蝶わたる
 
とける雪おってくる雪かわらぬ寝雪まよい乱れてちる吹雪
 
雪にさくらに飲む二階むりしてまた来る来年も
こうしてこうすりゃこうなるものと知りつつこうしてこうなった
夢でよかった動悸が胸に残ってほのかな雪明かり
彼岸会がえりの此岸のふたり門前そばやの猪口といる
江戸の気っぷが生きている小店紺のれんのくぐり甲斐



 


Hand Bill

引札
(ひきふだ)とは
今でいうチラシ広告のようなもの。


江戸後期には力をつけた商人が台頭、市井の庶民が消費を支える構図ができあがる。生活圏の拡大に伴ってモノ、人、金の流通が拡大。
引札はそんな商圏に、情報としてチラされた。
注目すべきは、江戸も末期に近付いて食べ物屋、料理屋の引札が目立つこと。当時の町人達は奢侈や華美が禁止されていたため、目立たない煙草入れや小間物類に渋く凝ったり、証拠の残らない料理におごりをしたと説明にある。

文化文政年間(1804〜1829)飲食店は6000軒を越えたともいわれる。因に万延元年(1860年)江戸の蕎麦屋の数は3763軒に達したという。

そば屋の引札(または報条ともいう)


戯作者は当代随一のコピーライター、報条には趣向を凝らした口上が添えられる。

山東京伝:神田通新石町富士屋、本町二丁目松桂庵、今戸橋亀屋
式亭三馬:芝増上寺門前風詠庵
曲亭馬琴:元飯田町東玉庵
河竹黙阿弥:両国柳橋松中庵、浅草奥山萬盛庵

戎橋丸萬」
戎橋北詰西角

道頓堀川に架かる戎橋のすぐ脇にあった。
屋号が書かれた行燈の左手に「おだ巻」の文字が読める。


石碑 表:ここに砂場ありき 裏:本邦麺類店発祥の地 大阪築城史跡・新町砂場

 

今晩は例年そば食べ候こと故、買ひに遺し可申と存候処、町方払ひ方に取込み、そば切などは一切無之よし。これまで御陣内にて大晦日にそば食べ候者は無之ことのよしに御座候。 -「柏崎日記」より 天保年間


江戸時代の質屋の看板
左:王将と書かれた看板の意味は、
入れば金になるという洒落でつくられた。また右:と書かれた看板であるが、裏にはという字が書かれている。金利計算するために置かれた。因みに陰暦うるう月は小、普通の月は大。


茸狩は紅葉狩より世帯じみ
成程といって又見る遠めがね
料理人客に成る日は口がすぎ
初鰹薬のようにもりさばき
三人で三分なくなる知恵を出し
新そばに小判を崩す一さかり  
ー柳多留

蕎麦の花
蕎麦の花の白さに弱き里ごころ

そばの花亡母の記憶が地に還る

そばの花白く揺れてた門出の日

娘を売った話知ってる蕎麦の花

涙など誰にも見せぬ蕎麦の花

蕎麦の花月に真白く村貧し

  ー川柳歳時記(秋)


元正(げんしょう)天皇

第四十四代天皇680(天武9)-748(天平20)
715年に即位、724年に甥の聖武に譲位。
「続日本書紀」巻九にあります。
養老6年(722)7月19日に発せられた勧農の詔。

口語訳
今年の夏は雨がなく、
田からとれるものがみのらず、
よろしく天下の国司をして、
おおみたから(百姓)を勧課し、
晩禾、
蕎麦及び小麦を植えしめ、
たくわえおき、
以て救荒に備えしむべし。

奈保山西陵 なほやまのにしりょう