蕎麦の話題 1





鴨なんばんのこと
橋本 治さんの南蛮美術についてのエッセーにあります。「安土桃山時代の日本には、「南蛮美術」という不思議なものがある。大昔の中国人は、自分達の周囲に住む異民族を「
東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮北狄(ほくてき)と呼んだ。つまり南に住む文化程度の低い(と一方的に決めつけられていた)異民族が「南蛮」なのである。中国文化で育てられた日本人は、もちろんこの発想をちゃんと踏襲した。位置的には日本の西にあるヨーロッパ人は、戦国時代の終わりから江戸時代の初めにかけて、南回りの船で日本にやって来ているのだが、南から来る彼らは、南蛮とみなされていた・・・。ついでにそば屋の鴨南蛮の「南蛮」とは、ネギ(それと唐辛子)である。日本そば屋で鴨南蛮を注文して、「こんなもののどこが南蛮(=西洋)か」と思うのだが、その正体は(鴨の)肉ではなくて、その横にあるネギなのである。匂いの強いネギは、その匂いの異質さによって「南蛮」と呼ばれたのだろう」。



いかなる名人上手でも細工の出来、不出来は時の運、一生のうち一度でも天晴れ名作が出来ようなれば、それがすなわち
名人ではござりませぬか。

その後次のような文章が続きます。
つたない細工を世に出したと、さほど無念とおぼしめさば、これからいよいよ精出して、世をも人をも驚かすほどのりっぱな面を作り出し、恥をすすいでくださりませ。
(この場合、面を麺と置き換えてやればいい)

 高村薫さんの「マークスの山」の目次
 

播種  p007

発芽  p068

成長  p156

開花  p234

結実  p307

収穫  p409


当社の製品に白菊があり、白菊をうたったものにいくつかあります。

黄菊白菊 そのほかの名は なくもがな

心あてに 折らばや折らぬ 初霜の
置きまどわせる 白菊の花

そば屋さんで食べるかちんうどんのかちんの意味が分かって納得する。
古川柳に
雨を降らせて能因は胸がやけがあります。能因法師。平安中期の歌人。藤原実綱が任地伊予に向かうとき能因も同行した。その時干ばつで農民が困り果てていた。実綱は「雨の神は和歌に感じやすいということである。一首願いたい」と能因に依頼した。早速三島の明神に献歌した。天の河 苗代水にせきくだせ 天下りませ 神ならば神 霊験あらたかで、にわかにかき曇り、その後三日三晩雨が降り続いた。人々は大いに喜び、歌の駄賃(花賃 かちん)として、餅をついて報いたという。古川柳は能因がその餅を胸がやけるほどに御馳走になったらしいと想像させる。 
 

どうけ百人一首 半紙本一冊。近藤助五郎清春画作。
清春は生没年不詳。その画風は鳥居風である。享保(1716-)頃の板行か。
小倉百首を地口秀句に翻案し、自らその見立絵を描いている。
天智天皇のうたを次のように
あきの田のかりほすまでにひよりよくわがこどもらをらくにすごさん

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
ながながし夜を ひとりかも寝む

うらみわび 干さぬ袖だに あるものを
恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ

能事(よいこと)を言えば二度寄り付かず
習うよりすてる姿に骨を折
すてる芸はじめる芸にうらやまれ
ほととぎす聞かぬといえば恥のよう
歌一首あるではなしにけつまづき

ダッタンソバ 学名Fagopyrum tataricum(ファゴピルム・タータリクム)ファゴピルムとは「ダッタン地方の」とか「中央アジアの」といった意味。また漢字で書く韃靼の「韃」はムチ、「靼」はなめし革の意味。
因みに普通ソバの学名はFagopyrum esculentum ファゴピルム・エスクレンツム。
tartare [tartar タル・タール] a.ダッタン[人]の。sauce 〜 タルタルソースーn(T〜)ダッタン人 ーmタルタルステーキ steak〜)生の牛のひき肉にタルタルソースを混ぜたもの


「私が蕎麦を食べることはそば湯を飲むということでそば湯にこだわりたいのです。お店という舞台があって、主役は「蕎麦」。大切な脇役がそば汁。タイミングよく析がチョーンと入ってそば湯が出てくる。この芝居にも似た情景が私の蕎麦を食べる醍醐味と思っていますが、なかなかそういう場面には出会いません」 ー 新そば87号「そば湯」より


 信州の 寒さを思う 蕎麦湯かな -子規


さらしな会会員証 昭和30年台 

製粉機
初期の時代には、人々は穀物を挽き砕くだけで満足し、そして時のたつうちに、ふすまと荒挽き粉とを分離する発明をしたということは確からしい。初めは、手で動かされる篩い分けが行われた。そして、フランスではいまでも、mouture en ggrosse(大量生産)と呼ばれる作業を行なう場合に、ハンドルのある篩い分けが行なう特別の場所がある。小麦粉を篩い分けることは、ニーダーザクセンとアルザス地方の大部分においても、普通に行われている。このために、種々の篩いが必要となる。ローマ人は、主に、振り落とし用篩(cribra excussoria)と挽き粉用語(pokkinaria)という二種類の篩を用いていた。挽き粉用語は、pollenと呼ばれるきわめて細かい小麦粉を篩い分けるものであった。馬の篩は、最初、ゴール人(Gauls)により作られ、リンネルの篩はスペイン人により作られた。石臼から送り出されてくる荒挽き粉が入るように袋状の篩を製粉機に取り付け、この袋状篩を製粉機に取り付け、機械により、この袋状篩を回転させ、そして振動させるという方法は十六世紀初頭に初めて知られた。このことは、いくつかの古い年代記から読みとれる。

この本のなかには膨大な知の集積がある。上記製粉についての記述はほんの一部にすぎない。尚ソバについては2にあり

ヨハン・ベックマン著
特許庁内技術史研究会訳
「西洋事物起原」1-4
ダイヤモンド社
1520-680100-4405

粉挽き女イティの小像


「そばの種をどこに播くかが問題だ。家のプランターにはもう植える余地がない」。そこで庭を拡大解釈します。「実はいつもポケットにそばの種を入れています。誰にも見つからないように種を播くのはスリルがあります。場所はいくらでもあります、よく行く近くの公園、通勤の道。ちょっとした空き地をみつければ種を播きます。うまく育っているだろうか、自分が播いたそばのことが気になります。そんなことはいつも見なれた風景を違ってみせます」。おそらく自分だけの楽しみ、なにやら梶井基次郎の「檸檬」を彷佛とさせます。