四ツ橋 すなばへの道



話の発端は、かつて四ツ橋にあった道標からはじまる。


  四 ツ 橋


長堀川と西横堀川が十文字にクロスして口の字形に橋が四つかかっていました。四つの橋を渡ると、元の同じ場所に戻ります。奇観というわけで、江戸時代から大阪の名所でした。それぞれの橋(炭屋橋、吉野屋橋、上繋橋、下繋橋)をひっくるめ四ツ橋と呼ばれました。



現在西横堀川はありません。埋め立てられ阪神高速道路になっています。四つ橋は新町橋から南へ200M、又、下記すなばは四つ橋から西へ約400Mのところに位置します。実際に四つ橋の架かっていた場所は写真にある高速道路の真下になります。

後の月入りて貌(かお)よし星の空 
上島鬼貫(1661年-1738年)は摂津伊丹出身。享保3年(1718年)「独りごと」を刊行、同中「まことの外に俳諧なし」は有名。天気予報官がつかう常套句冬は又夏がましじゃと言ひにけりは鬼貫の作。


下繋橋にあった来山(らいざん)の句碑
涼しさに 四つ橋を四つ 渡りけり
小西来山:元禄時代の代表的俳人(1654-1716)平野町の薬種問屋に生まれる。談林派の西山宗因に師事したが、芭蕉に近い境地を開き、十萬堂に住み、多くの名句を残した。

行水も日まぜになりぬ虫の声
白魚やさながら動く水の音
むしつてはむしつては捨つ春の草
時雨るるやしぐれぬ中の一心寺





四ツ橋「浪華百景」芳瀧画

北の上繋橋、東の炭屋橋、南の下繋橋、西の吉野屋橋。図は南西から北西に船場方向を望む。遠くに見える大屋根は難波御堂と津村御堂。


新町橋を東から西へ渡ればそこは新町、かつてすなばがあったところ

そして 四ツ橋、すなば、 新町橋 が一つにつながる。


以前四ツ橋にあった道標

寛永頃に薬研堀の「大和屋」が「大坂砂場そば」の看板を掲げている。

石碑に刻まれた文字に

すなば 新町 あみだ池

とあります。

砂場

今はもうない、すなばへの道


大坂すなばの謎を秘めたロゼッタ・ストーン

砂場「いずみや」の台石

大正2年、同地に天理教会を建設するため堀り起こした際、偶然発見されたすなばの台石、幅二寸、丈五尺。

残念ながら上記の道標、台石とも戦災で焼失し、「砂場」の痕跡はなくなってしまいました。

 宝暦7年(1757年)開校の「大阪新町細見之図 澪標 みおつくし」の末尾にある郭名物之分の記述によると、大坂は新町遊郭の旧西門のあった新町2丁目と、同3丁目の境にある南北筋の南側は俗に砂場と呼ばれ、和泉屋(太兵衛)は砂場門際に、津国屋は砂場角と二軒あって、両方とも和泉国の出身だった。土地のものは砂場にあるそば屋というわけで、屋号よりも俗称の地名砂場で親しまれてきた。

 和泉屋の創業については、大坂車町に住む絵師長谷川光信が、大坂市中」および近郊の名物や風俗を描き狂歌を讃した「絵本御伽品鏡」享保15年(1730年)(刊下巻に「いづみや」ののれんを掛けた店の絵が載っており、享保のころ1716年〜1735年には営業していたと思われる。一方、津国屋の創業については、嘉永2年(1849年)「二千年そでかがみ」に津国屋(作兵衛)は天正12年(1584年)創業とうたっている。  -「蕎麦の世界」 新島繁・薩摩卯一 共著

砂場のあった場所はなにわ筋と長堀通りの交差した西大橋の交差点近くの公園、東南の角にあります。
大阪では南北に走る道を筋、東西は通といいます。因みにNYでavenueは南北、streetは東西。

Memo1: 津の国
摂津
の国は畿内に属し、古代に初めは単に津の国と呼ばれていた。津というのは港。摂は天天皇に代わって政治を行う摂政という呼び名である。つまり摂津という言葉は「港をつかさどる」という意味になる。「津乃国屋(つのくにや)」の屋号をもった店舗がたくさんあった。昭和12年の「大阪市及び近郊電話番号簿」をみると、「津の国屋・松岡清三」(大仁東)「津の国屋商店・桟敷佐多当郎」(内本町)、津乃国屋人形店・津乃国徳蔵(玉屋町)や二つ井戸の津の清粟おこし店、北堀江の津の惣粟おこし店などの屋号が拾える。しかし、現代においては「摂津国」(つのくに)と言っても、それが、大阪とその周辺の地域を指す「国」の名前だとは誰も理解できないのである。 -阪神学事初
明治4年7月14日の廃藩置県時大阪府は旧来の大坂三郷とその隣接地の幕府天領というごく限られた地域であり、同年11月20日の府県改廃時においても旧摂津国のうちの旧大坂三郷を含む東成・西成の両郡および住吉・島上・島下・豊島・能勢の五郷を大阪府域とするにとどまった。それに反し従来は摂津国の一部であった川辺・武庫・うばら・有馬・八部の五郡は、この日以後、永遠に大阪というエリアに戻らなくなった。しかも、明治14年2月7日には堺県と統合されて広大な大阪府が成立する。堺県という語彙からは、中世以後の大坂と堺の関わりから限られた地域との統合と考えられやすいのであるが、当時の堺県は国郡制下の和泉国・河内国・大和国のすべてであり、大阪府には現在の奈良県をも含む広域行政が求められた。 -同阪神学事初
畿内(きない、うちつくに)とは天皇が住む周辺地域のこと、山城国、大和国、河内国、和泉国摂津国(つのくに)をいう。律令制に基づき設置された日本の地方行政区分は7世紀後半以降明治時代まで続いた。国府(こくふ)は国司(地方区画である「国」の行政官)が政務をとる施設が置かれた場所のことで、国府所在地を表す地名を府中(ふちゅう)という。国府は和泉国にあっては現在の和泉市府中町にあたる。建物跡が発掘されている。守護所は国府のそばにあったが、室町時代に堺に移った

Memo2:大阪の町
豊臣秀吉は大坂本願寺の跡地に天正11年(1583)から大坂城の築城を開始する。天正14年に二の丸の工事が始められるた。現在の外堀の範囲と考えられる。町は四天王寺につながる街道沿いにあった。文禄3年(1594)に惣構(そうがまえ)堀の大規模な工事がはじまる。(大川から猫間川、東横堀川で囲んだ広大な地域になり、その為多数の屋敷や寺社などが移転させられることになる)また三の丸築城にともなって惣構の西に代替地が与えられる。四十間四方の正方形の町割りが施された地域、船場である。この時点で町は上町台地から低地に移ることになる。しかし慶長19、20年の大坂冬の陣、夏の陣の戦乱により大坂の町は壊滅状態になり、以降徳川幕府の手によって再建されることになる。大阪城の再建は元和六年(1620)から寛永6年(1629)まで3期にわたって進められた、この工事により豊臣時代の大坂はすべて地下に埋められた。元和から寛永年間にかけて市街地は西へ、そして南に拡張される。前述の船場は慶長年間(1596-1615)に開発、西船場(元和5年-寛永初年)島之内(同)中之島(同)堂島(元禄年間)と堀川の開削によって町の規模は飛躍的に拡大された。『天下の台所 大阪」より

江戸では寛永のころに薬研堀の大和屋が「大坂砂場そば」の看板を掲げていたのである。砂場が江戸へ移った経緯は明らかでないが、大坂屋を名乗り半天にまる大のしるしをつけるのは、まぎれもなく大坂系だったからである。和泉屋の中氏一族よりも、そこで修行した縁の者であろう。
  「蕎麦の世界」 新島繁・薩摩卯一 共著




新町廊中九軒夜桜

「浪華百景」芳瀧画

西船場立売堀川沿いの瓢箪町・佐渡嶋町など七町がお上公認の遊所として、寛永のころ(1630年ころ)にできる。土手に柳が、町内には桜並木がつくられる。桜の下をいく太夫の道中も始まり、市中の桜の名所ともなって、夜桜の頃には多数の見物客で賑わった。

明治31年に編まれた「大阪繁盛誌」によると、全盛期の新町通、新町南通、新町裏通、西側、新町北通を含めて、貸座敷246軒、芸妓418人、娼妓211人。現在お茶屋・料亭15軒、芸妓10数人。
新町の郭の中心、九軒は桜の名所。その植え込みの東西に句碑が建っていた。東には芭蕉の「
春の夜は桜に明けてしまひけり」、西の端には加賀の千代女の「だまされて来て誠なりはつ桜」。芭蕉の句碑は行方不明。加賀の千代女のものは、一部欠損しているが、料亭「勇」に保存されている。
 -米朝ばなし 上方落語地図 より


「郭文章」の夕霧・伊左衛門の芝居で有名な揚屋、吉田屋があったのもここ。ほかに木村屋、槌屋、扇屋、富士屋、茨木屋、佐渡島屋などの名が知られていたようです。
  -米朝ばなし